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ガッシャブルムT峰遠征報告 NO3

7/23・24 BCにて休養。24日藤川・花田隊員およびハイポーター4名C1に向け出発。C3建設およびルート開拓。私は先日のC2順応で少し、目の周りがむくんでいるようである。
7/25 C2泊して、C3まで高所順応のためBCを隊長・小林・河野・ハイポーターと私5名で出発。ハイポーターがゆっくり歩いてくれたので楽にC1に到着。
夕方河野さんが"明日はC2に行かない。明日の朝隊長に言う"と言っている。BCからC1までの登りがつらかったようで、ロープに引かれる様に歩いていた。前を歩いていた私もロープが重くなり、前を歩く小林さんに迷惑をかけてしまった。もし明日までに体調が回復しなかったら私はどうしたらよいか悩んでしまう。
7/26 河野さん隊長にC2には体調が良くないので登らずにBCに下りると告げる。
私は、C2に登りたかったが河野さん一人にしてはいけないと思い残ることにした。
河野さんは今日下りると言い、隊長も下りたほうがよいといったが、私はBCに下りたくない気持ちが強く、また、クレパス帯を日の高くなった状態で二人で下りることの危険を感じ(先日C1に河野さんと二人で登る許可をもらうとき、早朝の雪の締まっているときでないと駄目と隊長にいわれ、その後、やはり二人では危ないということで、取りやめにした)C1にもう一泊することにした。天気は快晴で、本当にC2に登りたかった。
7/27 朝食を取らずに下れとの隊長の指示もあったが、前日のご飯の残りでおかゆを作り  食べてから下る。荷物は私が背負い、河野さんは空荷で先を歩いてもらい、アンザイレンでクレパスの危ないところも、無事クリアーしてBCへ下山。山羊が運ばれてきて、夕食に新鮮なレバーを食べられて満足。
7/28 無線交信で、隊長はBCに下りるが無線機はC1に置いていくので、隊長からアタック隊とのサミットの交信をするように指示される。
10時から無線をオープンにして藤川さんからの連絡を待つ。12時にあと50mくらいで山頂との連絡が入る。オープンにしてあるので登頂したら連絡くださいと告げる。
12時27分にプラチリと二人登頂と連絡が入る。"おめでとう!よかったね!気をつけて下山してください。"山頂は雲の中で天候は悪そうなので早々に会話を終了する。登頂第一声を聞けて私は感無量、本当にうれしい。他の登山隊もBCを訪れてきて、"コングラチュレイション"と祝ってくれた。韓国隊も登頂したようである。

14時隊長他がBCへ下山。朝食抜きで下りてきたらしく、かなり疲れている様子。 アタック隊との15時の交信で、12時10分に登頂。30分遅れてダワとティカも登頂。 花田さんは7500mでフィクスロープがなくなったので引き返したとのこと。

夕食時、隊長よりC2を上に変更したと報告があった。旧C2とC3の間は短いと聞いていたがそれよりも短くなるという。旧C2の上はかなり急な雪壁である。疑問に思ったが質問はできなかった。
7/29 13時頃藤川さん達頂上アタック隊がBCへもどっつて来た。皆元気だ。"さきに登頂してしまいました"申し訳なさそうな顔で藤川さんが私に言う。そんなことないのにおめでとう!!

登頂したのに、なぜかBCの空気は重くて盛り上がりがない。昼食時も夕食時も、お通夜のようであるなぜなのだろうか。隊員一人が先に登頂するということはこういうものであるのか。私には理解出来ない。雰囲気を盛り上げる場作りが私にはできない。
7/30 二次アタックは8月1日頃と発表があった。ダワが帰国したい。ニサールが国の表彰でイスラマバードまで帰るという。ハイポーター不足であるが、食事・飲み物に十分注意して酸素を吸って頂上を目指そう。今のところ体調は問題なし、お灸をして内蔵を整えておこう、喉の奥の痛みが出たらバッファリンを飲んで乗り切ろう。気持ちも高揚してきた。夕食後、ニサールが翌朝C3まで食料を荷揚げしてくれるとの事。ダワも二次隊がアタックするまでいてくれることになり、ようやく隊の雰囲気が和やかになった。
7/31・8/1 アタックへ向けて休養。体調良好。天気の回復を待つのみ。
8/2 BC入り37日目にして、ようやく頂上アタックに行動開始。 C1へ向かって6:30出発。13:00着。後ろから河野さんに引っ張られるようで重く足が前に出なくなってくる。C1につく頃にはヘロヘロになってしまった。

水作りでガスに火をつけると酸欠状態で息苦しくなってきた。 昨夜隊長よりアタック後のテント撤収のために、アタックザックの外に、大きなザックをC2まで上げるように指示された。これが意外に重く感じられ疲れた原因の一つかもしれない。河野さんはそういう指示は聞いていないからとザックを持ってあがらなかった。これではBCまでポーターに持って来て貰った意味が無い。BCまで一人25kgの樽一つという重量制限があり、私もオーバーしてしまい余分なものを持ってきていることに気兼ねして支援隊にお願いしたりした。
8/3 天気が思わしくなくハイポーターがBCより上がってこないので、C1停滞となる。前日の疲れからみればOKかなと思った。
8/4 天気快晴。C2に向けて出発時、旧C2にデポしてある酸素をハイポーターの荷物が   多いから自分で持って上がるようになると言われた。あの急な雪壁を疲れが出始めた頃から持って上がるのかと思うと少々気が重くなった。BC出発時、藤川さんよりあせらず、ゆっくり登るように助言されたことを思い出し、体力を温存する為に、いつもにましてマイペースでゆっくり登ることに心がける。遅いということで順番を変わることになり、隊長も先に行ってくださいと言うと、僕は隊長だから一番後でよいとの事。ハイポーターが今朝BCを出て近くまで来ているとの交信あると、隊長は河野さんも追い抜いて先に行く。

河野さんは岩稜帯は苦手らしく、私が近づくともっと離れて下で待つように叫ぶ。ハイポーターが追いついてきて、暫らく行動をともにする。三角岩峰の手前の遭難者の骸骨があるあたりで、隊長たちが休憩している。追いつくと、旧C2から酸素を吸うかと言われ、前回も新C2の近くまで無酸素で行っているので吸いませんと答える。ハイポーター達はテント設営と水作りのため先に行くことになる。皆は先に行き、一人でマイペース以上にゆっくりと慎重に楽しみながら、三角岩峰を登る。ようやく旧C2に到着。隊長が雪壁の上で何か叫んでいる。酸素をプラチリに持ってこさせるから吸いながら来るようにと言っているようだ。雪壁を登り終え少し行くとプラチリが酸素を持って来てくれた。吸わなくてもいけると思ったがせっかく届けてくれたのだし、BCで装着の練習をする事になっていたがしなかったので着けてみることにした。ゲージとかを確認し装着する。呼吸を無理やりさせられているようでかえって辛い。外したかったが慣れるしかないと思いC2まで15分ぐらいかと思うが着けて行った。

C2に着くと皆が心配して迎えてくれた。テントは、隊長と花田君と一緒との事。なぜですか?と聞くと、元気で異常なかったら河野さんと二人のテントで良いと言われた。疲れているが異常は無いといって女性二人のテントにしてもらう。河野さんにテントの中で聞くと、具合悪い人を世話して、責任を取らされるといやだから一緒のテントは断ったとそうだ。同じパーティの仲間なのにショックであった。こんなことで、ショックを受けていたらサミットなんて無理かなと思いながら眠りに着く。
8/5 7時過ぎ酸素を吸いながらC3へ出発するが、すごくうっとい。8時頃ダウンの上下を着ていたが暑かったので脱ぐため、遅れて出た河野さんに先に出てもらおうと思い支点の所で準備をしているとフィックスにテンションが掛った。前のほうで花田君がスリップして足をばたつかしている。ダワが雪尻を踏み抜き落ちたらしい。プラチリと隊長が前に行きロープを出して、隊長が覗きに行ったが応答が無い。私も河野さんもフィックスして見ているだけ、小林さん花田君も同じだった。ティカは隊長が呼んでいるのに私たちより前に出ようとせずC2まで戻ろうと何度も言う。隊長の指示が無いのに勝手に動けないと思いつつもC2に戻る。すぐに隊長たちも戻って来てロープを切ったという。あまりそのことについてピンとこなかったが仕方が無いことかと思い、指示されるまま食料・酸素ボンベなどを置いてC1に下りることになった。大型ザックは花田君がC3に置いて来ている為、私のザックに詰めて下りて貰う事にした。下山にあたり河野さんが、エイトカン等装備をダワに持って貰っていて無くなってしまい下りられないという。私はATCとエイトカン両方持って来ていた為、エイトカンを使ってもらう。ガスと風の中、旧C2上の雪壁・三角岩峰・リッジを降る。フィックスの無いところでホワイトアウトになり暫らくガスが切れるのを待つ。ダウンの上下を着ていて良かった。心身ともに疲れきってC1に着く。
8/6 快晴。小林・河野・広木BCへ下る。他の人はダワの捜索に残ることになった。 私を先頭に、真ん中を小林さん最後河野さんでアンザイレンして下りるが、早く歩きすぎたのか、河野さんがトップで歩くといい、私と入れ替える。クレパスはかなり大きく口を開いてきており、二番手の小林さんを確保している不安定な河野さんの姿を見ていると、こちらも二人が落ちたことを考えると気を引き締めて確保に当たる。途中、C1に登ってくる藤川さんに会ったが、お互い言葉にならない。

重い気持ちの中BCへ。コックのザヒールが迎えに出てきて、抱きかかえて励ましてくる。 夕方、隊長達も捜索を打ち切りC1を撤収して戻ってくる。 気持ちが落ち着いて考えるとなぜロープを切ったのか、切るのがはや過ぎたのでは、引き上げが出来なかったのか等いろいろ思い浮かんでくる。皆の安全を考えるとこれが最善だったのかもしれない。力量不足の自分がここにいることがいけなかったように思えてくる。

ダワの遭難で、今回の遠征に参加予定だった富士山で滑落死亡した土屋さんのこと、ダワと年の近い私の息子のこと、ダワの家族のことなどを思い涙が止まらず眠れなかった。
8/7 朝食中も涙が止まらず困った。外で作業をして日に当たることで涙を止めた。 イタリア隊が遺体と思われるものを撮影してあるとの事で、行って見せてもらったが、皆の結論は違うということになった。
8/9 前夜より雪は降り続いている。雪の合間を見てダワのテントの荷物を整理して樽に詰める。すると、皆に分けた行動食がそっくりとってあった。子供たちへの土産にするようであった。それを見ると又涙がとめどなくあふれ苦しくなってくる。子供たちのためにもダワの名誉は守ってあげなくてはいけないと強く思った。

隊長の2ヶ月もヒマラヤの山の中で過ごせば技術は上達するという言葉を胸に、登山活動を私 なりに頑張って得るものも沢山有りました。 初めての8000mの挑戦は悲しい事故で幕切れとなってしまいましたが、確実に、私の人生 では大きな足跡が残りました。20代後半で病気になり、会社も休業し治療に専念する中で体 力をつけるという主治医の指導の下、軽いハイキングから始めてとうとう8000m峰に挑戦 するまでになりました。 これもひとえに、家族・山の仲間・職場の仲間・そして治療して下さった先生方や多くの皆様 のおかげと感謝しております。

                                 広木(愛)

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2005年 千葉県勤労者山岳連盟 ちば山の会 
http://www.chibayama.com