ちばやま

ちば山の会1998年7月

千葉市中央区弁天町5番地鶴岡方

Tel・Fax 043-255-9821


<<山になる時>>    山崎修一
立山での春山合宿は、楽しすぎるほど楽しい毎日 だった。大嵐の一昼夜が明けると素晴らしい快晴の 日が続いた。5月4日。剣岳に3人、山スキーに4 人、奥大日岳に13人が登った。全員無事下山でき たが、同じ日に剣では落石、穂高と鹿島槍では滑落 で三名が遭難している。もしかすると、遭難が「彼ら」 ではなく「我々」であったとしても、なんら不思議は なかったのかも知れない。  しかし、私がいま想うのはそのことではない。山行帰り、私はふと一人で山に行きた いと思った。大バーティーの山行ではない、たった一人の心細く不安な山行に懐かしさ を覚えた。おもえぱ山の会に入ってから一回も一人で山に行っていない。いつもだれか に誘われ山行に参加し、それを楽しみ、十分満足してる。ところが今回楽しすぎるほど 楽しい山行に続けて、なにか後ろめたさのようなものを感じた。連れて行って貰ってい る身でこんなことを言うのはおこがましいが、山はこんなに楽しくていいのだろうか?  今、私たちは20世紀の終わり、日本で生活してる。多くの人は都市生活者として、 物質的に豊かで決適な生活を、当たり前のように過ごしている。そんな私たちは、人工 的な環境と日常のあわただしさを離れ、山へあこがれる。しかし、山に入って何日か生 活をしてみても、私たちはひ弱な現代人だ。羽毛入りの寝袋にエアーマット。日焼け止 めクリームやサングラスがないと困る。快適な生活とは簡単に縁を切れない。それだけ ではない。日常のあわただしさから逃れてきた筈が、山でもじっとしていられない。寸 暇を惜しんでガツガツと山に登り、バチバチ写真を写して、せわしない。もちろん酒も たくさん飲む。リッチな夕食は大好きだ。歌を歌ったりトランプをしたりと、楽しいこ とをむさぼる習性は下界にいる時とまったく変わらない。いやそれ以上かもしれない。 素晴らしい景観とピーカンの上天気でみんな幸せな気分に酔っているのだから。 山の「躁状態」はテントの中の晩餐で一気に盛り上がる。それは大きな楽しみだ。 それがいけない、などとは決して言わない。しかしそれだけでいいのか、とは思う。  むかし山は神聖だった。その山に登ることは信仰としての行為だった。 修行者たちは、望なる山々のように「清らかになりたい」と願っても、そうなり得ない 自己を深く自覚していた。彼らは一歩一歩「六根清浄」と唱え、自他の救済を神仏に祈 りつつ霊山を登った。時代は変わった。もはや剣岳に錫杖を遺した人のように、また槍 ヶ岳に登った播隆上人のように山に登ることはできない。  しかし先人が山に感じた畏敬の念は、僅かながらも私たちの中に残っている。  泰然と青空に映える夏の山。惜し気なく花を咲かせる高山植物。朝の大気と夜の星空。  神々しい岩峰。一瞬の秋を彩る紅葉。そして荘厳な雪山。 騒々しい現代人も言葉を失い、ただただ見とれるばかりだ。その瞬間、たとえ仲間がい ても、たった一人だ。たった一人の自分はその時、山に、花に、雪になっている。 カメラを出してとか早く登らなくちゃなどの雑念は、すっと遅れてついてくればいい。
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