山岳スキーへの憧れ:白馬大雪渓
菊池典雄(昭和24年生まれ)
登山に興味を抱いた者にとって白馬岳はアルプス入門の聖主として君臨している。
大雪渓と高山植物に憧れ夏山の賑わいは昔も今も変わってない。今夏の朝日・雪倉・白馬の静かな花旅で白馬を訪れたのは6度目となったが、山頂には大雪渓側から続々と満面に笑みを浮かべた老若男女が登ってきた。
新潟市で生まれ育った私は、小学生のころ、定時制高校の教師であった父に連れられ、勤労高校生と一緒に標高900m前後の五頭山や佐渡のドンデン山に運動靴で登ったのが登山歴の始まりである。中学卒業の頃までに安達太良山など低山を2.3回登った記憶がある。
竹スキーから始まったスキー歴は47年くらいであろうか。小学校4年の頃から従姉の嫁いだ小出のスキー場に年末年始になると通い始めゲレンデスキーに没頭した。大学に入学すると益々ゲレンデスキーにのめり込み、アルペン基礎スキーの一定のレベルを獲得できた後は、競技スキーを数年かじり、野沢の牛首滑降コースなども滑った。
日本一の八方尾根スキー場はそのスケールと豪快さから最も好きでありシーズン初めからGWまで毎年数回通った。白馬三山を眺めて第3ケルンまで足を伸ばしているうちに、山岳スキーへの憧れが広がっていき、快晴のGWについに唐松岳までスキーを担ぎ上げ山小屋から尾根つたいに山岳スキーを楽しみ、このときが本格的な山岳スキーの始まりであった。八方尾根から眺める白馬三山は脳裏にしっかり焼きついた。当時、ゲレンデスキーは盛んでスキー人口も益々増加しており、斜陽になった今とは隔世の感があった。山スキーはごく一部の山屋やスキーヤーが楽しんでいる時代であった。
唐松岳山スキーの体験は鮮烈なものであったようで、山岳スキーへの思いが益々高まっていたころ、日刊スポーツ主催で5月20日頃の時期の白馬大雪渓滑降の募集が目に入った。前年の夏、槍ヶ岳に登った経験と唐松の山スキー以外は高山への経験はなかった。日本で始めてのプラスチックスキー靴(美津濃)をザックに入れ、クナイスルのブルースターをザックの上蓋に横に挟み、借りた登山靴で快晴の大雪渓をつぼ足で登った。お客さんは私と準指の女の子のたった二人のみであったが、その他は添乗員で準指の若い男性と地元のガイドが二人の豪華版であった。登山のイロハも知らず、アイゼンも着けていなかったが、怖いもの知らずというか若気の至りというか、22歳の体力で何とか登りきった。スキー・スキー靴・ザックをハアハアいいながら担ぎ上げやっとの思いで山荘に辿りついたときに出された番茶の旨さを今でも覚えている。山荘で二泊し周辺を滑る計画であったが2日間とも悪天、山荘で停滞、パチンコをやったりだべったりして退屈をしのいだ。
最終日になり漸く晴れ、朝食前に山頂へ向かった。吹雪いた後の海老のシッポとピンクに染まる空が幻想的で今でもその感動が甦ってくる。大雪渓の滑降は降雪後でもあり慎重に下ったが、新雪雪崩の凄まじいデブリの上を通過したのを覚えている。
雪渓の滑降が終了してから、地元のガイドが雪渓の雪でアズキアイスをつくってくれたり、猿倉から二股への途中で初夏の新緑を眺めながら山ウドの味噌汁を作ってくれたり、冬・春・初夏を一日で経験できた楽しい思い出である。土日を入れた2泊3日であったが大雪渓を滑降したのは我々のグループのみであった。松本から新宿行きの特急で、俳優の高嶋夫妻と可愛い二人息子(現在バリバリの俳優)が同乗していたこことも思い出される。
今年のGWと中旬に43年ぶりに大雪渓山スキーを楽しんだ。山スキーセットの進歩もあり山スキーヤーは増加、山ボーダーの増加など天気の良い日の大雪渓は日帰りオフピステ派で賑わっていた。
ちば山・山スキー派は増加している。一歩一歩山スキーのノウハウを会得し安全で楽しい山スキーをメンバーの皆さんと追及していきたい。
RETURN to HOME