ちばやま

ちば山の会2000年6月

千葉市中央区弁天町5番地鶴岡方

Tel・Fax 043-255-9821


ミレニアム山行


 初めて穂高連峰を見たのは小学校の倭学旅行の時だった。初秋の上高地から見上げる穂高連峰、そこに漂う張りつめた緊張感を今も思い出すことができる。私が持ち続けてきた「山へのほれ」の原点はあそこにあるのだろう。ときに1974年。

 時は流れ新しいミレニアム初めての春、ハイキングに毛のはえた程度の山行歴しかないままイイトシになり「いつまでも若くはない」という焦燥感に駆られた私は内向的な性格?にむち打って一大決心をし山の会の扉を叩いた。首尾良くゴールデンウィークの大型山行への参加許可を取り付けたものの小心な?私の胸は高まる期待と膨らむ不安で出発の頃には潰れそうになっていた。

 我々(W辺さん、N潟さん、私)の出発は「本隊」に一日遅れて5月3日、晴れ渡った東金の空が当直明けの目にしみる。約束にわずかに遅れた私を中華料理屋の角で迎えてくれたお二人の表情が硬かったのは、すぐにでも横尾へ向けて歩き出せそうな暑苦しい私の格好に驚いておられたのであろう。沢渡までは後部座席に座ったきり、着いたら着いたでてきぱきとテントの張られる様を目をあいて眺め、初めてのテント泊に興奮したり明日の道のりを心配したりも束の間、誰よりも早く寝入り誰よりも遅くまで寝て・・・と我ながらお気楽な新人である。

 4日も天気は上々。ザック(個人装備と申し訳程度の食料しか入っていない!)を背負って河童橋から雲の中の穂高峰を見上げたとき漸く当たり前な「不安」を思い出した。「ほんとに涸沢まで大文夫だろうか。」横尾をすぎアイゼンをつけて本谷橋をすぎ、登りがじわじわときつくなって不安は現実のものとなった。足が上がらない、息が切れる、前を行くN潟さんのザックが遠いこと、その足の速いこと・・・「休ませて」と言いたいのだがもう声も届かないだろう。

 テント場までの最後の急傾斜をさっさと登りきったW辺さんはいち早くちばやまのテントを探し出し手招きしている。私は「これ以上一歩も進めません」という風情・心境でなんとかたどり着いた。が、多分あまり記憶力が良くないのであろう、荷物を下ろして食糧計画係・H木さん特製の雑炊を食べ終わるころには先ほどまでの無様な自分の様子などすっかり忘れ「いつちょ前」の顔で北穂から戻ったまだ昂揚した面持ちの皆に混じっていた。雪の涸沢に立ってぐるり雪の穂高連峰を眺めているだけで嬉しさがじわっと広がる。「こんなに早く来られるなんて。」だからW辺会長の日から出た5日の予定がテント番だったとしても私は不幸ではなかったろう。みんなの登った前穂・奥穂を半日飽かずに眺めてうっとりし、太陽の下「氷イチゴ」でも食べて悦に入っていたに違いない。しかし・・・「趙さんも明日は登ろうよ。せっかく来たんだし。」
私ははじめ我が耳を疑い次に驚きのあまり柴田さん特製ひとナベ“ん”万円と称えられたカレーをこぼしてしまった。(K田さん、マットがカレー臭くなったのは私のせいです。今まで黙っててごめんなさい)このカレーは間違いなく、今までで一番美味しかった。この夜のW辺会長は普段の3割増しくらいいい男だった。カマテンの中交わされる話はどれも楽しく、Y崎さんの歌は天上の調べのごとく耳に揮いた。

 翌日5時またも最後に起き出す。北尾根組の姿はとうにない。私が自分の身支度だけをする間に朝食が作られ片され、下山するK原さんらの準備が整ってしまう。「起床5時」としか聞いていないのに、どうしてこうもすんなり無駄なく事が運ぶのかわからない。自分の力量ではどう足掻いても奥穂には届かないとばかり、この日はハナからおまかせモードの私は「T樫班だから」はい。「つぎ歩いて」はい。「しっかりバケツ掘って」はい。「ヘリくるよ、耐風姿勢!」はい。「荷物預かるから」はい。「ここからボクが先行こう」はい。「ビッケル預かろうか」はい。「アイゼンはずして。しばらく一緒にいこう」はい。近来稀に見る素直き、である。好天とご指導のよろしきを得、言われるままに一生懸命右足と左足を交互に進めているうちにほとんど不安を感じるヒマもなく展望にも恵まれた雪の奥穂に立ってしまった。当初の予定を大きく上回る幸運な展開に頭のネジが少しゆるみぎみでテント場に着いたが、みるみるうちに出来上がる雪のテープルとベンチ(立案:?、製作:???)に頭の中は陽気な音が鳴り禅きだし、そのベンチに座ってH本さんが描く天気図を覗きこむ頃には頭の中お祭りか大音楽会状態で何もかもがHappyに感じられた。この日のすき焼きは間違いなくこれまでで一番美味しかった。午後の光線に照らされたみんなの顔はいつもより3割増しくらい素敵だったが、辺りが暗くなり始める頃リベンジを果たして無事戻ってきた北尾根組の面々は神々しくさえ感じられた。翌朝も5時起床とだけ伝えられた。

 さて、あとは帰るだけの6日、登りの苦手な私も今日はもう「大丈夫」。私があたふたと荷造り、身支度だけしている間に朝食が作られ片され、テントやゴミが片付けられる。準備ができたところで出発。誰言うとはなしに「横尾からは競争になるからなぁ。」ペースが速くなったのはアイゼンをはずした辺りから? 前を行くH多さんのナベが遠ぎかる。必死で付いて行こうとするが顎が上がってしまう。横尾を過ぎるとさらにペースはあがり、これはもう「走っている。」私の脇を巨大なザックがすり抜ける。後ろから見るとそのザックから生えた足が「走っている。」H木さんの姿はその遥か前方、のハズだがもう見えない。帰りは「大文夫」と思っていた私は酸素が足りないのか、ばんやりする頭で「ちばやまの底力、不気味な底力」と呟いていた。やっとの思いで集合場所タクシー乗り場についたのは12時ちょっと前。タクシーは12時に予約されていた。5時起床、で上高地12時。あのペースを見越して12時に予約してあったのか、12時に予約してあったからあのペースになったのか。私にはもう何が何だかわからない。私はもう一度「ちばやまの底力、不気味な底力」と呟いてみた。

 残念だったこと。(1)横尾〜上高地あたりの景色だって3月までの私にはそうそう見られないものだったのに先を急ぐあまり充分に楽しめなかったこと。(2)それほど急いだにもかかわらず「タクシー乗り場」着順をついに知ることができなかったこと。・・・でしょうかね?


                             趙 永愛


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